「幼稚園児が名前を呼ばれても無反応」って、それどういうこと? 〝自分を最優先している親の姿〟を子は真似る【西岡正樹】
子どもはいま「迷い子」状態 〜個を最優先させる社会と公教育の矛盾〜
■子どもたちの個を最優先する行動は、まさに親の姿
また、休日のカフェには家族連れが多い。先日も、お父さんが子どもを二人連れてボックス席に座っているのを見かけた。お父さんは仕事をしているのか、パソコンに向かう目は真剣そのもの。お父さんの意識の中には子どもたちの存在は全くない。子どもたちは子どもたちで、お父さんの存在を意識することもなく、2人はそれぞれゲーム機とタブレットでゲームを楽しんでいる。
そこに家族がいるのだが、3人は同じテーブルに向かい合い、隣り合って、座っているだけでお互いを気に掛けることはほとんどない。お互いがそれぞれの時間を個別に享受している様子を見ていると、Mの言った「名前を呼ばれても無反応な幼稚園児」も納得できる。それぞれが常に個を優先して行動する。周りに誰がいようと気にしないし、気にならない。
きっと多くの幼稚園児たちは、様々な場所で「個を優先するという体験」を積み重ねているのではないだろうか。幼稚園児たちにとっては、幼稚園ではそばにいる先生も、家にいる時のお父さんやお母さんと同じなのだ。子どもたちは自分がやっていること、やりたいことが最優先で、それをやっている時は、そこに誰が居ても居ないことと同じ。名前を呼ばれたところで私のやっていることは変わらないし、変えられない。
子どもたちの個を最優先する行動は、子どもたちが様々な場所で体験してきた、その結果なのである。それはまさに親の姿であり、私たち大人の姿なのだ。
先日、若い教師から次のような話を聞いた。それは、5年前の私の苦い実体験を思い起こさせるような話であり、子どもが個を最優先させる行動にもつながる話だった。
「先週、授業参観と懇談会があったんです。自分のクラスは懇談会に参加した保護者は3人(児童数28人)でしたが、他学年では参加者が2人のクラスもあったようです。私自身は、3人の保護者と和やかに話ができて良かったんですけどね」
「やはりあの時と同じなんだな」と思いながら話を聞いていた。
5年前に4学年を担当していた時、3人の教師と私は同じような体験をした。思い起こせば、その懇談会は1年間を締めくくる最後の場だった。であるにもかかわらず、我々4学年の懇談会の参加者が、なんと学年全体で20人にも満たなかったのだ。4クラスあるうちの3クラスでは、1クラス当たりの参加者が5人以下だったというさみしい状況だったのだ。
3人の教師が手を抜き、その場しのぎの仕事をしていたわけではない。誰一人手を抜くことなく、自分ができる精いっぱいの仕事をしていたのだ。確かに保護者から見れば頼りなく見えたところはあったかもしれないし、不安はあっただろう、それでもⅠ年間子どもたちと関わり、成長をサポートしてくれた教師に「ご苦労さまでした」という「ひと言」が伝えられないものだろうか。その一言で人は繋がれるのだが。(思い出すと、またふつふつと頭が沸騰してくる)
「隣の先生の懇談会は、参加者が多かったんですよ。理由はよく分かりませんが」
若い教師の言葉にも、怒りと虚しさが入り混じった苦い思いが滲み出ていた。
他者との関係性を切った「個を優先する」大人の行動は、見えないところで子どもたちに大きな影響を与えている、ということをちょっと考えてほしい。そう思わずにはいられない私の今日この頃。